■.ニット帽の彼に道を譲る

 名古屋走り。それは私の地元ドライバーの、運転の荒さを総称した名称だ。もちろんそう呼ばれていることは知っていたけれど、自分が運転するまでは危険だという実感は無かった。でも社会人になって、営業として車を使うようになってよく分かる。名古屋での運転は、ひたすら怖い。

「もう、やだ……本当」

 世間は、超電導リニアが初走行するといって賑わっているのに、私は一人悲しく社用車を運転している。しかも、今日は先輩の付き添いなしで一人で営業先まで行く上に、高速にも乗るのだ。ほぼペーパードライバーの私にどんな苦行なのだろう。泣きたくて仕方なかった。

「っ、もぅ……!なんでっ、ここで入ってくるかな」

 隣の車線にいた車が、ウインカーも出さずに横入り。まだ下道を走っているだけなのに、先行きが不安過ぎる。私は大きなため息をつきながらゆっくりとブレーキを踏んだ。この先は、赤信号。一旦気持ちを立て直そうと深く息を吐いたその時、左脇から真っ赤な車が顔を覗かせた。

「……っ!」

 いや、“顔を覗かせる”というよりは見るからに入る気満々なオーラに、思わずハンドルを強く握る。なんという迫力だろう。見れば、車の中央部に白い線の入ったデザインの如何にも高級そうなスポーツカー。しかも左ハンドルで、多分外車だ。

 これは、入れて差し上げなければと、私は少し手前で停止し道を譲る意思を伝えた。運転席の男性は、私の方を見てくれている。

(か、かっこ……いい!)

 ニット帽を被った彼は、鼻筋がスラリとしていて掘りの深い綺麗な人だった。私に向かって“助かるよ”と言いたげに目配せをしてくれるから、私も咄嗟に会釈してしまう。え、どうしよう、なんか会話しちゃったみたい。

 思いがけない、カッコよすぎる男性とのコミュニケーションに、胸の鼓動が異常に早まっていく。彼はモデルさんか、何かだろうか。異国の血が混じっていそうなお顔立ちとスポーツカーを乗り回しているところから、私は彼を“お忍びで日本にやってきたパリコレモデルさん”と決めつけた。ならば是非とも、その美しい横顔を、もう一度だけでいいので拝ませてください。そんな思いで視線を送ると、なんと彼も私を見ている。

「わ、っ!やば……っ!」

 変な奴だと思われたくなくて、必死に視線を逸らして誤魔化すけれど、彼の瞳に私はどう映っているだろうか。もう手遅れかもしれない。いや、そもそもさっき目があったのは偶然に違いない。あんな格好いい人が私を見ているはずがない。半分開き直るように、顔を上げたのに。

「……えっ」

 ニット帽の彼も私の方を見ていて、その上、微かに笑っているように見えて私は息を飲んだ。まるで私の反応を愉しむような。いや、これは勝手な思い込みだ、笑っているように見えただけだ。

「いやいやいやいや……っ!」

 気まずさと恥ずかしさでパンクしそうなっていると、信号が青になって前の車が動き始めていく。私はニット帽の彼に道を譲っているので、赤いスポーツカーがゆっくりと前進してきた。そうして彼はハンドルを回しながら、ちらりと私を見る。

(どうも、お嬢さん)

 軽く左手を挙げて微笑む彼からは、そんな声が聞こえた気がした。

 独特なエンジン音を響かせながら、前を走る彼の車のナンバーは“新宿”。もう会うことはきっとない。でも、一瞬でも会えたことはラッキーなことなんだと思えるくらいには、特別な時間に感じた。

「お元気でね、お兄さん」

 東都からここへ来たのなら、きっと彼も名古屋走りの洗礼を受けているだろう。海外からお忍び旅行なら尚更、厄介な道とドライバーには頭を悩ませていたのかもしれない。そう思うと、今の私と一緒だと思えて急に親近感が湧いてきた。どうか、安全運転で名古屋を楽しんでください。そんな思いでバイバイを告げたのに。

「え……っ」

 赤いスポーツカーは車線が動き出すと慣れた様子で追い越し車線へと進路変更し、かなりのスピードを出して直進。交差点へ突入するとそのまま華麗に右折して、消えて行ってしまった。

「……なんだ、っ」

 どうやら、運転にビクついているのは私だけみたい。まったく見当違いをしていたことに、乾いた笑みが漏れた。あの様子であれば変な心配は必要なさそうだ。私は勝手に彼の旅路を祈りながら、アクセルを踏んだ。

(にしても、格好いい人だったなぁ……)

 今でも、彼と目が合った時のドキリとした感覚が、残り続けている。様になっていたハンドル操作と横顔も忘れられない。また、会えたらいいな。なんだか今日の仕事も上手くいくような気がしてきて、私は大きく深呼吸をした。さあ、高速に乗って営業先まで無事に着いてみせるぞ。

 物凄くパワーを貰えるひと時を過ごせたこの出会いは、きっと忘れないだろう。